霊岸島は、住居表示では東京都中央区新川1~2丁目となります。
霊岸島の特徴は、名前の通り、川に囲まれた島になっている点です。
・南東:隅田川
・北東:日本橋川
・北西:亀島川
・南西:亀島川
によって囲まれています。
また、住居表示にもありますように、霊岸島の中を新川が横断していました。
さらに、霊岸島は、かつて江戸湊・舟運・日本酒のまちでした。
この記事では、
- 霊岸島の歴史
- 霊岸島は江戸湊のまち
- 霊岸島は舟運のまち
- 霊岸島は日本酒のまち
について解説します。
江戸時代、霊岸島は物資や情報の受発信拠点であったことがわかります。
1.霊岸島の歴史
1590年、徳川家康は、小田原城落城により北条家を滅亡させた1か月後に、江戸に入りました。
(一夜城で有名)
小田原城攻めの中、総大将である豊臣秀吉と徳川家康が連れしょんの最中に、領地替えの命令を秀吉から家康に下したからです。
当初、家康は、家臣団からの猛反対を受けました。
「これで徳川家は終わった」
と、家臣や領民にも、ささやかれたほどです。
しかし、家康は、関八州の広大な原野に目を付け、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の領地を秀吉に明け渡し、江戸に入りました。
1-1.江戸城下町の形成(※1)
その当時、霊岸島周辺はおろか、江戸の大半は海面下にありました。
海を埋め立て開拓するために、家康は家臣の伊奈忠次に命じ、「利根川東遷」事業に着手します。
当時の利根川は、江戸湾(東京湾)に注ぎこんでいました。
しかし、度重なる洪水により、現状での開拓は困難と判断します。
そこで南に流れていた利根川を途中で東に付け替えさせ、霞ケ浦へと流れを替える大土木事業を行いました。
その数十年に及ぶ大事業の成功により、洪水が減少し江戸の開拓は進み、江戸の城下町が形成されます。
その後も各地で、河川の付け替えや改修、掘割の掘削、護岸建設、海岸の埋め立てを進めていき、世界最大級の都市(人口約100万人)まで発展しました。
霊岸島周辺の土地も、武蔵野台地の山で切り崩した土砂を運搬・埋立てし、形成されたものと考えられます。
1-2.霊岸島の由来
日本橋川と亀島川に囲まれた「霊岸島」の地名は、寛文元年(1661)に浄土宗の「雄譽霊岸(おうよれいがん)」という僧侶に由来します。
雄譽霊岸の発願で、埋め立てが進められ、霊岸寺が建立されたことによります。
1-3.江戸時代の霊岸島
左の古地図は、江戸時代の霊岸島の古地図です。
右の地図は、現在の霊岸島の地図です。
霊岸島内部における主な違いは、
・新川 (有 → 無)
・越前堀 (有 → 無)
・中央大橋(無 → 有)
の有無と、
・永代橋
(日本橋川河口上流側 → 下流側)
の位置変更などです。
江戸名所図会から霊岸島に関わる絵をいくつか掲載します。
1-3-1.永代橋
写真1.現在の永代橋(右写真)
左の絵は、江戸名所図会の永代橋です。
右の写真は、現在の永代橋です。
隅田川に架かる位置が違っており、
- 江戸時代の永代橋は、元禄11年(1698)隅田川の日本橋川河口部よりも上流側に架橋
- 現在の永代橋は、明治30年(1897)に隅田川の日本橋川河口部よりも下流側に移され、関東大震災で被災、大正15年(1926)に再架橋
となります。
1-3-2.湊橋・霊岸橋
写真2.現在の湊橋(右写真)
図6は、江戸名所図会の「日枝神社の祭礼」の様子です。
- 霊岸島へと日本橋川に架かる湊橋
- 霊岸島へと亀島川に架かる霊岸橋
を渡る様子が描かれています。
右の写真は、現在の湊橋です。
なお、筆者は亀島川・隅田川・日本橋川と霊岸島を反時計回りに歩いて一周した様子を、下記の記事にまとめていますので、よろしければご覧ください。
2.霊岸島は江戸湊のまち
霊岸島は、隅田川に面します。
江戸時代、永代橋から下流側は、江戸湊として発展しました。
図8.江戸名所図会:江戸湊の賑わい(右図)
左の図は、江戸時代の霊岸島周辺を表した古地図の一つです。
右の絵は、江戸名所図会の「江戸湊の賑わい」を描いた様子です。
霊岸島の南端に、向井将監(むかいしょうげん)の屋敷があります。
2-1.向井将監(むかいしょうげん)
江戸時代初期に、隅田川に至る亀島川下流左岸(新川側)に、幕府の御船手組(おふなてぐみ)屋敷が設置されていました。
戦時には、幕府の水軍として、平時には天地丸など幕府御用船を管理していました。
大坂の陣で、水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582~1641)を始め、向井家は代々、将監を名乗り御船手頭を世襲しました。
このことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになります。
また、明治22年(1889)に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島などに向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期に亘り、湊町の伝統を引き継ぎました。
2-2.江戸湊の石碑
亀島川水門と隅田川との区間に、江戸湊の跡地を示す石碑が建立されています。
Δ写真4.石碑案内文(右写真)
石碑に記載されている案内文を引用します。
Δ石碑案内文1.
2-3.江戸湊の賑わい
江戸湊の賑わいを描いた浮世絵を見ます。
図11.広重による「江戸湊の賑わい」(右図)
左の絵は、渓斎英泉(けいさいえいせん)による永代橋の浮世絵です。
永代橋の下を、屋形船や猪牙舟(ちょきふね)が行きかっている様子が描かれています。
また、永代橋の下流側に、多くの菱垣廻船などが見て取れます。
右の絵は、広重による江戸湊の賑わいを描いた浮世絵です。
多数の菱垣廻船が停泊していると同時に、富士山も描かれています。
当時の
・江戸名所図会
・江戸名勝図会
などを見ますと、霊岸島は、
・江戸湊のまち
・舟運のまち
であったことがわかります。
なお、亀島橋から亀島川水門を通り永代橋まで歩いた様子を、下記の記事にまとめたしたので、よろしければご覧ください。
3.霊岸島は舟運のまち
霊岸島は、江戸湊のまちだけに多数の様々な船が行きかいました。
3-1.菱垣廻船(ひがきかいせん)
菱垣廻船は、江戸時代に上方(大坂)と江戸を結んだ廻船(貨物船)で、同様な貨物船の樽廻船と並び称されます。
菱垣は、両舷に設けられた垣立(かきだつ)という舷しょうに装飾として木製の菱組格子を組んだことに由来します。
写真5.実寸大菱垣廻船(右写真)
(出所:なにわの海の時空館)
左の絵は、「東都名所永代橋全図」です。
現在と違い、永代橋の南側に日本橋川河口があるのが、浮世絵でも表現されています。
また、永代橋と佃島の間の江戸湊の水域に、多くの菱垣廻船や千石船などが、停泊している様子が描かれています。
右写真は、継ぎはぎの写真でわかりくいですが、実寸大の菱垣廻船です。
実は、江戸時代の大型の舟は、江戸湊に停泊し、そこから猪牙舟などの小型の舟に荷物を積載し直して、各地に運ばれました。
(なにわの海の時空館:筆者撮影)
写真6・7は、写真5の写真と同じですが、大阪市内にある「なにわの海の時空館」という海洋博物館内にある実寸大の菱垣廻船です。
この博物館に展示されるまでは、実際に海に浮かんで航行していました。
残念ながら、「なにわの海の時空館」は現在閉鎖中で、見学することはできません。
3-2.樽廻船
樽廻船は、酒専用の運搬船として開発された舟です。
当時の菱垣廻船は、1回ごとの航海において、様々な種類の品物を積載し、満載するまでは出航しない慣習がありました。
灘(神戸・西宮)や伏見(京都)の酒を江戸に運搬したい荷主が、「早く出航しろ!」と催促しても、菱垣廻船の船頭からは断られてしまいます。
当時は、冷蔵保存の技術がありませんので、酒が傷みやすい環境にありました。
そこで、酒造組合が中心となり、荷主の要望に即座に応えて速度の速い「樽廻船」の開発が成されました。
菱垣廻船よりも半分程度の日数で届けることが可能となり、利用料金も安く、利用客数は菱垣廻船を凌ぐようになりました。
3-3.猪牙舟(ちょきふね)
現在のタクシーの役割を担ったのが、猪牙舟です。
猪牙舟は猪の牙のように、舳先(へさき)が細長く尖った屋根なしの小舟です。
江戸市中の河川で使用されましたが、浅草山谷にあった吉原遊郭に通う遊客がよく使用したため、山谷船とも呼ばれました。
写真8.猪牙舟(篠田氏所有)(左写真)
左の図は、鳥居清長が描いた猪牙舟です。
右の写真は、江東区亀戸に在住の篠田さんが所有する猪牙舟です。
現在でも、川に浮かべて漕ぐことができます。
筆者は、篠田さんと話をし、「いつでも使用してよいですよ」と、承諾をいただいております。
3-4.屋形船
屋形船は、船上で宴会や食事などをして楽しむことができ、屋根と座敷が備えられた舟です。
(1914年、屏風:六曲一双、各:横168cm×縦362cm、東京国立近代美術館蔵)
鏑木清方(かぶらききよかた)作「墨田河舟遊」の屏風です。
屋根の上で船頭らが、近づく舟との間合いをはかるために、長い竹ざおで忙しく操縦しています。
一方、舟の中では大名の一家が、人形舞の一座の芸に興じている様子が描かれています。
なお、
- 鏑木清方作「墨田河舟遊」の屏風
- 鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)「吉野丸船遊び」の錦絵
については、下記の記事をご覧ください。
江戸時代の屋形船は木造ですが、現在の屋形船はFRP製です。
隅田川を航行する屋形船を撮影しましたので、ご覧ください。
4.霊岸島は日本酒のまち
江戸時代、霊岸島には新川という川があり、その沿川に多数の酒問屋が並んでいました。
4-1.新川酒問屋
図16.江戸名勝図会:新酒番船江戸新川入津図(右図)
左の絵は、江戸名所図会の「新川酒問屋」です。
新川沿いに多数の酒問屋が並んでいる様子がわかります。
右の絵は、江戸名勝図会の「新酒番船江戸新川入津図」です。
灘・伏見から菱垣廻船・樽廻船で運搬されてきた、その年最初の酒が新川の酒問屋に到着した様子を描いています。
当時の一番酒は、特に貴重なもの、縁起物として高価でした。
灘・伏見から酒を樽廻船に積載して出航する様子を、司馬遼太郎は、著書「菜の花の沖」の主人公である高田屋嘉兵衛を通して詳しく描いています。
文春文庫(※3)
4-2.下り酒
家康が幕府を開き(1603)、参勤交代が始まりますと、江戸は諸大名や家臣、商人、職人などが集まり、大都市として発達します。
ここで、司馬遼太郎著「菜の花の沖」の一部を引用します。
上記は、「下りもの」のいきさつを説明していますが、下りものの一つに酒があり、「下り酒」といいます。
とりわけいち早く対応したのが、伊丹(兵庫県)の酒蔵です。
南都諸白を一段と進化させた「丹醸(伊丹諸白)」が、江戸近郊の地回り酒を凌ぎ、江戸市中でもてはやされます。
江戸の庶民を夢中にさせた「下り酒」──”船揺れ”がもたらした驚きの熟成効果 | 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」 (sake-times.com)
SAKETIMES
江戸初期の頃は、4斗樽2本をそれぞれ馬の背の左右に積んで運びました。
上方から江戸まで運んだ酒が、「下り酒」の始まりで、その後、運搬手段は菱垣廻船・樽廻船へと移ります。
下り酒の大半が、霊岸島内の新川沿いにある酒屋問屋に降ろされました。
ちなみに2021年、船(ヨット)による下り酒が実現されました。
11月23日に神戸港中突堤を出航し、11月28日に東京港竹芝に到着、酒を降ろしました。
主催は、阪神間日本遺産推進協議会です。
そのYouTube動画を掲載しますので、ご覧ください。
(神戸経済ニュース)
霊岸島に行かなかったのは、ヨットの帆が高く、隅田川に架かる
・築地大橋
・勝鬨橋
・佃大橋
の下を潜ることができなかったからと考えられます。
4-3.新川大神宮
新川大神宮は、江戸酒問屋の守護神として、長年に亘り酒類業界から見守られてきました。
写真9.現在の新川大神宮(右写真)
新川大神宮の由来は、慶光院周清上人が1625年、2代将軍徳川秀忠から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮(内宮・下宮)の遥拝所を設けられたことに始まります。
その後、1657年の明暦大火により焼失し、代替地を新川に賜り社殿が造営されました。
365年以上を経た現在まで「新川大神宮」として産土神(うぶすながみ)であるとともに、酒問屋の守護神として崇敬を集めています。
御祭神
- 天照大御神(あまてらすおおみかみ):伊勢神宮内宮の御祭神、総氏神
- 豊受大神 (とようけのおおかみ) :伊勢神宮下宮の御祭神、農業・諸産業・衣食住の守護神
(出所:中央区立京橋図書館)
写真11.新川大神宮内奉献酒(右写真)
左写真は、新川沿いに並ぶ酒問屋と和船の様子です。
右写真は、新川大神宮内に積まれた奉献酒ですが、大半が灘・伏見の酒です。
5.まとめ
以上、
- 霊岸島の歴史
- 霊岸島は江戸湊のまち
- 霊岸島は舟運のまち
- 霊岸島は日本酒のまち
について解説しました。
江戸時代の霊岸島には、江戸湊を中心として舟運が盛んであり、下りもの(下り酒)などの物資以外にも人の交流が頻繁にあり、その結果として先端情報など飛び交っていたことが容易に考えられます。
当時の日本における長崎の出島のような立ち位置を確立していたものと思われます。
そのため、芸術・文学・科学なども盛んでした。
例えば、
・芸術:東洲斎写楽
・文学:松尾芭蕉
・科学:伊能忠敬
などが、この地で活躍したことが、亀島橋・橋詰の案内板記録に残されています。
その様な偉人を排出する土壌が形成されていたのでしょう。
また、様々な情報が入手できるが故に、赤穂浪士が討ち入りを果たす前の数か月間、潜伏先として利用された地でもあります。
次回の記事では、上記の芸術・文学・科学・赤穂浪士について触れます。
なお、霊岸島のバーチャル化を企画しています。
その内容につきましては、下記の記事をご覧ください。
6.お役立ち情報案内
日本酒、事務所に関するお役立ち情報を掲載します。
ご活用ください。
6-1.日本酒サービス「saketaku」
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7.参考文献・引用Webサイト
※1 「家康、江戸を建てる」 門井慶喜著 祥伝社文庫
※2 「亀島川・新川」 大江戸歴史散歩を楽しむ会
※3 「菜の花の沖」 司馬遼太郎著 文春文庫
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